2012/02/23

月が射す夜 (伊勢正三)














本日は伊勢正三の曲メドレーで
[月が射す夜〜ほおづえをつく女]
この2曲は伊勢正三が「かぐや姫」解散後に組んだ
「風」というグループで発表した曲だ。

先日、週刊文春を何気なく読んでいたら、
「阿川佐和子のこの人に会いたい・第912回」で
伊勢正三との対談が載っていたのだ。

伊勢正三 1951年生まれ。
大分出身、高校時代に南こうせつと知り合い、
71年に南こうせつ、山田パンダと「かぐや姫」を結成。
「かぐや姫」時代に作詞・作曲した代表作に
誰もが知る「なごり雪」「22才の別れ」がある。
「かぐや姫」解散後に大久保一久と「風」を結成した。

週刊文春の阿川佐和子との対談の中で
当時の日本のフォークソングに関する応答があり、
その行き着く最終的な着地点を伊勢正三は語っていた。

最初にアメリカからフォークソングが流れてきた頃は
ボブ・ディランに代表されるような
社会的メッセージが強かったものの、
いつからか日本では私小説的な身の回りの世界を歌う
叙情的なものに変化したことへの阿川佐和子の問いに対して
伊勢正三は井上陽水の「傘がない」を引き合いに出して答えていた。

手の出しようもない社会的・政治的・宗教的な問題よりも
何よりも今、「君に逢いに行くための傘がない」ことが
一番の問題であるならば、
世の中がカオスのように色々な側面がある中で
「君に逢いに行きたい」というただそのことが
唯一無二の真理になるから。
つまりは究極のラブソングにはかなわない、と。

私は驚きながらも嬉しくなった。

取り決めの中で人がよりヒトとして豊かになるための
社会・政治における制度とヒトの在り方も、
信仰おいて人がヒトとして豊かになるための
宗教的な戒律と制度とヒトの在り方も、
つまりは家族という最も小さな社会単位においても、
家族となるためのヒト同士の信頼においても、
ヒトが神の啓示に受け答えようとする姿勢のすべてもが
ラブソングで喩えられることを語っているように想えたのだ。


中学一年生だった頃、
近所の大学院生が開いていた塾に私は通っていたことがある。
その大学院生の先生は自分の寝床兼教室で授業に際して
ほとんど勉強を教えてくれたことはなかった。
教えてくれたのはどうやって遊ぶか、
どうすれば遊んでるように勉強できるか、ということと
自分の好きなギターの弾き語りばかりだった。
先生はいつも「かぐや姫」を歌っていた。
だから私がギターを弾くようになり最初に歌い始めたのも
「かぐや姫」や「風」の曲だった。
それが「ビートルズ」や「ローリングストーズ」だったら
きっと今日のこの記事はなかっただろうね(笑)。
ちなみに「かぐや姫」の中でも
「さぁ〜肩を組もう〜さぁ〜一緒に〜」と大はしゃぎで
いつもライヴで語りかける南こうせつよりも、
言葉少なに淡々と歌い進めるナイーブな感じの
伊勢正三が好きだったな。

まぁいいか、とにかくラブソングは
強く希望に溢れる曲でなく淡い曲も悲しい曲も
いつの時代にも強烈な影響力があるということだ。


そして来月、代々木公園野外広場のステージで
ギターではなくトゥンバでパキスタン・フォークソングを
弾き語るであろう自分の姿をこっそり私はイメージするのだった。













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