2013/06/19




(写真クリックで拡大)








「いいね」で褒めちぎられるが故の
勘違いが何と多いことだろう。
自分でジャッジできないことを
安っぽい「いいね」で背中を押してもらっているような感覚を
まるで鵜吞みにすることが勘違いの連鎖を生むのだろう。


(さっきまで個人への想いの丈を書き連ねたが短縮。機あれば直接話そうと想い直した)

追記:6/20


「自分にとって曖昧だったことが「友達」や「友達の友達」の「いいね」で
自分の背中をも押すような感覚において、それを鵜吞みにすることの勘違い」

例えばそこにデモが「大規模」に仕立てられる要素の一つがある。
「インターネット」がというより、そんなインフラの一つが
大規模デモを仕立てるという構造の礎でもあることは事実だが、
それだけでは大規模にならなかったかもしれない。
実際に目の前にしたことのない「友達」や「友達の友達」の「いいね」が
勘違いや矛盾を多からず少なからず「私」に与えるだろう可能性を
インターネットというインフラ的な構図だけで語れるだろうか。

インターネットという背景よりもSNSの「共有」などという言葉が
「勘違い」「勢い」「勝手な正当性」「多数性の力量」をイベント的に
ヒトの心の中で増幅させている可能性はないだろうか。








0 件のコメント :

コメントを投稿