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写真によって写されたものを
「情報」の破片を拾い集めるように見つめるなら
主に写っているのが人間であろうが動植物であろうが
建造物であろうが物質であろうが
構図に存在しうる意図的な情報表現としてしか
汲み取れないかもしれない。
でも「感覚」の破片を拾い集めるように見つめるなら
主に写っているのが人間であろうが動植物であろうが
建造物であろうが物質であろうが
一つ一つが構図を飛び出し、記憶・想像・本能を呼び覚ます表現として
汲み取れるかもしれない。
作者の表現がたとえ一つであったとしても
作品の放つ表現はそれを見る側において決して一つではない。
写真に限らず、音楽でも美術でも「作品」「証」に対して
「感覚」の破片を拾い集めようと心掛けるのは
表現が「感覚」において超越的な何かへ通じる可能性が
「0」ではないということを
旅の途中に経験しているからだ。
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